どこかに向かって歩く時はいつも焦る。たとえ時間が十分で、遅れる可能性がないとしても、なぜか焦ってしまう。誰かと競争でもしているように感じる。どこかに向かって歩く時はいつも緊張状態だ。
だから、散歩の軽やかさ、目的地なく歩く歩みの軽やかさに驚く。どこかに着く必要も、いつまでに着く必要もない。歩みが速かろうが遅かろうが、道が近かろうが遠かろうが関係ない。何かを持っていく必要もない。なんの必要もなく、歩くだけでいい。歩くこと以外にはすべてが余裕になる。
目的地なく歩くのだが、辿り着くこともある。たとえば、ある場所や状態に辿り着く。場所と言えばそれらしい公園かもしれないし、ふと出会った風景かもしれない。状態と言えば足が疲れることもあるし、頭が空っぽになるかもしれない。ある場所と状態に同時に辿り着くこともある。
この間の散歩では陸橋の上に辿り着いた。正確には陸橋の上から見える風景に辿り着いた。駅の片側のホームから反対側のホームへ渡れる陸橋だった。陸橋の上からは駅の裏手の畑が見えた。畑が燃えていた。その火が立ち上らせる煙を遠くから見て、自然と足が向かった。枯れ草なのかワラなのか分からないが、誰かがそれをかき集めて燃やしていた。野焼き、秋の風景だった。
枯れた畑、黙々と草を燃やし続ける誰か、小さく燃える火、舞い上がる煙。野焼きの風景をじっと見ていたら、周りの風景が目に入ってきた。畑の向こうに車道が通り、バイクが走る。畑の隣にある住宅をはじめに、視野の遠くまで住宅街が続く。住宅の並びは雑なようで綺麗にも見える。
なんの意味もない風景だけが残って、頭の中で流れていた考え事は止まる。体をどれだけ軽くしても頭の中には何かが残っていたが、それすら消える。軽いと感じる。
いつもそのような状態に辿り着くのではない。たまたまだ。どこかに辿り着きたいと思って歩き出す散歩はどこにも辿り着かず終わることが多い。ただただ体を軽くして、どこまで歩くのかいつまで歩くのかも決めずに、とにかくここから出て歩こうと思う。