現在映画館で「もののけ姫」が観られることをご存知だろうか。10月24日からIMAXでの上映が始まり、11月7日からは通常の映画館やDolby cinemaでの上映が開始されている。
そこで私は先日IMAXにて「もののけ姫」を超久々に観てきたのである。
IMAX・4Kデジタルリマスターの良さをここで語るのは少し違うなと感じたので、今回は「久々にみた、もののけ姫」について語っていこうと思う。

自称ジブリ好きではあるが、実のところもののけ姫をしっかり最後まで観たのは今回と小学生の時の2回だけである。当時小学生の私には、タタリ神が怖いとか、首がスパーンと飛ぶのが怖いとかはなかったのだが、言葉を理解することに苦しんだ。「あのばあちゃんなんて言ってんだ」と。ついでに当時の私は映像を見ることがあまり得意ではなかった(理由は当サイト欲しがり文庫「本を読むしかない」にて)。
なんせこのときの私はアシタカが持っていたつぶてがなんで関係あるのかも、そもそも”つぶて”の意味も知らない。
この「もののけ姫」の話を理解することが難しく、途中は不思議な話で最後和解してそれぞれ共に生きる、そんな話だったと記憶していて、2度観ようとはあまり感じられなかったのである。ごく稀にある金曜日に放送される日だって曲が良い、好きだとばかり感じてしまうし、途中で寝てしまったり、そもそも忙しくて最後まで観ることができていなかった。
私はもののけ姫に関しては“雰囲気だけの好き”で止まっていたのである。
そこで、ある程度話が理解できるようになった今、そして映画館での再上映が行われている今、もう一度観てみることにすると、もののけ姫とはあまりにも奥が深い話であった。
なぜ、カヤ(村の娘)は見送りを禁じられていたのか。
初めてもののけ姫を観た時、私にこの疑問が第一に浮かんだ。村を救った英雄が旅立つというときになぜ見送りがダメなのか。兄弟ですらダメなのか(実際は兄弟ではないのだが、当時の私はアシタカの妹だと思っていた)。
これについて、私は今回観るまで、時代背景や裏設定でそうなっているだけで明確になぜダメなのかについて触れられていないと思っていた。しかし、答えはちゃんと言っていた。
ヒイ様(村の長のおばあちゃん)がしっかり「掟に従い見送らぬ」と言っているではないか。小さい頃の私は掟の意味もあまりよくわからず、そもそもこのばあちゃんなんて言ってるんだろう状態であったから聞き逃していた。そしてこのときになって、アシタカは村を救った英雄ではなく、手を出してはいけないというタタリ神に手を出してしまって人ならざるものになってしまったのであるとわかったのだ。


「鬼だ…」
その後映画をじっくり観ていると、ふと気になったセリフがあった。それはまだ序盤の方の侍と遭遇するシーンである。
ジコ坊と話す前の最後の侍のセリフ「鬼だ…」というものだ。今なら分かる、アシタカがタタリ神に手を出すという禁忌を起こし、まげを切って村を追い出されるということ。これは人ではなくなってしまったのではないか。そして、タタリ神の呪いによって人間に復讐する右腕は明らかに人ではない。人であったが人ならざるものである、人に近しい存在の鬼という言葉がアシタカを表す言葉としてこんなにも相応しいものはない。
死んだ2人と助けた2人
その後観ていてふと思ったこと。それは、なぜ宮崎監督は甲六の他にもう一人をアシタカに救わせたのか。それは直前に思ったことと急に結びついた。「あーあ、殺したくもなかっただろうに侍2人も殺しちゃった」という侍に追われるシーンの後のことである。ここで、もしかして宮崎監督は生と死を均等に表現したかったのかなと考えた。私の記憶違いだったのかもしれないが、そう考えるとこの映画は本当に生きること・死ぬことについて深く考えさせるものであり、その2人ずつの生と死がほのかにさし示していたのではないか。

全く見覚えのなかったシーン
なんとなく、そうだったなとかこういうことだったんだと映画を観ていく中で、私の中のもののけ姫を更新していっていたのだが、全く見覚えのない場面があった。
それは、アシタカと乙事主が話すシーンである。おそらく昔の私の乙事主の印象はイノシシを連れてエボシ一行に対抗しにいくがタタリ神になってしまうやつ。そんな強烈な印象だけ残して、大事なシーンを記憶に残させてくれなかったのである。そしてその直前のシーンで私がずっと疑問だったことも言ってくれていた
死を恐れたもの
ずっと知りたかった答えがここにあった。
山犬のモロ曰く、序盤の猪神がタタリ神になってしまったのは死を恐れたから。それを知ってから観る乙事主がタタリ神になってしまうシーンは奥が深い。人間を恨んでいる乙事主はタタリ神になって、同じく人間を恨んでいるモロはタタリ神にならず死を迎える。人間への憎しみや怒りだけではなく死への恐怖がタタリ神になってしまうことを知ってから観るもののけ姫は以前観たものと全く違う作品になっていた。

妄想力が強い今だから考えること
エボシ御前とサンは実は親子関係ではないかという噂がある。非公式であるし、なんの根拠もない。このことに対して賛否両論あるのだが、ちょっとありえる話なのではないかと今回映画を観ていて感じた。モロがなんとしてでもエボシ御前を殺したかったということは改めて映画を観ていく中でセリフにしていたり行動に表れていたりする。でもなぜ、そこまでエボシ御前に執着するのか。そこに”ただの敵”以上の感情を感じてしまう。2人の因縁は……そういうことなのではないかと妄想してしまうのだ。
小さい頃の私が観たもののけ姫とこの間観たもののけ姫。観る年代が違うことで全く別の視野から新たなものが感じられる。子どもから大人になったからこその視点であるからかもしれないが、きっと今からみる3回目のお話も前回と違った視点で新たなものを感じられる。それは他の作品にも言えることなのではないか。これを気に我が家にあるジブリ作品のうち何回も観ていないものを改めて観る時間をとってみよう。
改めて、もののけ姫は全国の映画館で再上映中だ。前回みたもののけ姫とはまた違った感想を持つかもしれないし、この文章を読んだ後で観るもののけ姫もまた違ったものとなるかもしれない。同じ映画なのに同じではないということを再上映をやっている今、いろいろな角度から感じてみてほしい。