私たちは普段、「世界はそこにあるもの」だと思って生きている。
目の前の机も、外の空も、同じように存在している──そんな感覚は、ほとんど疑われることがない。
けれど、思考実験はその前提をあっさりと裏切る。
シュレディンガーの猫という思考実験がある。
中の様子がわからない箱の中に、生きた猫と放射線検出器とそれに繋がれたハンマーを置き、ハンマーの前に毒ガス瓶が置かれている。
検出器が放射線を検出するとハンマーが振り下ろされて、瓶が割れて毒ガスが発生して猫が死んでしまうという仕組みになっている。
その検出器の前にはウランやラドンなどの放射線原子を置いて、箱を密閉する。
この時点で2つの状態が起こっている。
①原子核が崩壊せず、検出器の反応がないため何も起こらず猫は生存
②原子核が崩壊して放射線が出て検出器が反応することでハンマーが毒ガス瓶を割り、猫は死亡
箱を開けて観測することによって猫が生きている状態か死んでいる状態かが確定する。
箱を開けて観測するまで猫の生死は原子核が崩壊する確率でしかわからない。この状態は、放射線を出していない状態、つまり生きている猫と放射線を出した状態、つまり死んでいる猫という2つの状態が共存している。
いわゆるパラレルワールドという状態。そして箱の中身を「見ること」が現実を決めてしまう。なんとも奥が深い。そして猫がかわいそう…。
そしてこの話をさらにややこしくする話がある。
もし箱を開けたのが、自分自身ではなく「友人」だったらどうだろう。
友人はすでに箱の中の猫を見て生きているのか、死んでいるのかを知っている。
一方、外にいて箱の中を見ていない友人から何も言われていない自分にとっては、友人と猫の生死はまだ ”確定していない状態” である。
その後、友人から手紙を通じて猫の結果が報告される。
これは「ウィグナーの友人」というシュレディンガーの猫の話を拡張させた話である。
友人にとって確定した世界と、自分にとって未確定の世界。そのどちらが「正しい」と言えるのだろうか。
そして、状態が確定したのはどの時点だろうか。友人が箱の中を見た時なのか、手紙を書いた時なのか、手紙を受け取った時なのか、はたまた結果を知った時なのか。
世界は「ただひとつ」と有名な童謡は言うけれど、本当に世界はひとつなのだろうか。
ここで、別の話について考えてみよう。例えばこの世界が作られた世界だとしたら。
シミュレーション仮説という仮説がある。私たちが生きるこの世界が、実は高度な文明によって作られたコンピュータ・シミュレーションつまり、仮想現実の中に存在しているのではないか、私たち自身の身体と心を含む全てのものがコンピュータの中にあるのではないかというものだ。すべては計算の結果にすぎない可能性がある。痛みも喜びも、選択も後悔も。
他にも、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」という仮説を立てた「水槽の中の脳」という名の思考実験がある。
これらの仮説は現実味を感じられないけれど、論理的にこの仮説を否定はできない。
逆に「自分の意見はただの電気信号でしかない」と思っても、それを証明することはできない。
つまりは、確かなものは存在しないのではないか。
思考実験は、答えを与えてくれない。
ただただ、私たちが当たり前だと思っていた前提をひとつずつ壊してくる。
それでも私たちは、この不確かな世界の中で、見て、選んで、考え続けている。
さて、ここからは先日行ってきた「思考実験展」の話をしようかと思う。
ここから先は本編のネタバレは含まない。思考実験とはこういうものだと見せつけられた問題について考えたいと思う。もう一回いうがこれは本編の内容ではなく、思考実験とはという導入に使われていたものだ。それでも見たくないという人は「思考実験展」に行ってから読んでほしい。
目の前に牛がいる。その牛がもし、あなたに「食べて」と言ってきたら。
あなたは目の前の牛を食べるだろうか。
この思考実験展に参加した時、友達と2人で参加したのだが他の参加者もいて計5人でこの話を聞いていたのだが、私以外は皆「食べない」を選択した。
なぜ、食べないのかと聞くと「食べれない」のだと。かわいそうだと感じたり、情が湧いたのか、食べるのに抵抗を感じるのだと。確かに牛が直接言ってきたらそう感じるかもしれない。でも、私の考え方は違った。
牛が「食べないで」と言ってるのではない。「食べて」と言っている。
なぜ、そう言うのか。その背景には何があるのか。
そう考えた時、私には「食べてあげる」ことしか選択肢がないように思えた。
思考実験は正解を問うものではない。何を根拠に選んでいるのかを否応なく突きつけてくる。
そこに確かな答えはない。あるのは、それぞれが立っている立場と、そこから見える世界だけ。
そして私たちは、見て、選んで、考え続けなければならない。不確かさから逃げるのではなく、不確かさを引き受けたまま判断する。
思考実験は、その試練を静かに試してくる。
確かだと思っていた世界に、もう一度、向き合うために。