やまんばマンボを評する二つの軸

私はあらゆる楽曲は『歌詞』と『音楽』二つのどちらかに重きを置くか、偏りがあると考える。ネットミームなんかが特に顕著である。耳に残るメロディや耳障りのいいリズムの『音楽』か、空耳や聞き間違いの『歌詞(言葉)』のどちらかが面白がられて有名になることが多く、『歌詞』と『音楽』両方が評価を受けて有名になることは稀なことだと思う。

そして折坂悠太が作詞作曲歌手を務めるやまんばマンボは歌詞に重きが置かれていると思う。これは折坂悠太が初めて、フルースクール以外の場所の人前での音楽活動が、ギターの弾き語りだったことが影響していると私は考える。『歌』が主体として存在しそこにギターで『音楽』をつけることで弾き語りは完成する。

やまんばマンボの『歌詞』は「人を食らう恐ろしい老婆の妖怪やまんば、そんなやまんばが出ると言い伝えのある山を通らないと日暮に間に合わない旅人がいる。仕方なく山道を通っていると、そこをやまんばに見つかり逃げる。逃げる様がまるでマンボを踊っているように見え、やまんばが旅人にダンスに誘う。ダンスを踊りやまんばが里にいた昔を思い出している隙に旅人が逃げ出す」とかなり面白い物語になっており、そこに『音楽』を合わせに行っているように感じる。

では『音楽』に面白みがないかと問われればそんなことはない。「旅人と踊り出したくなるような、やまんばの気分」や「隙をつかれ旅人に逃げられるような、やまんばの愉快さ」を反映したようなポップで明るい曲調。聴いているこちらまで踊り出したくなったり、愉快になるようなリズムやメロディー。BGMとして『音楽』だけを聴いても楽しいかもしれない。

だが、『やまんばマンボ』は『歌詞』と『音楽』のどちらにも面白みがあるが、私はやはりこの曲の魅力は『歌詞』に重きが置かれていると思う。

皆さんもぜひ体験してみてください。