今年の終戦の日(8月15日)、本作は地上波のテレビで放映された。その1ヶ月前の7月15日にはNetflixで初めて(日本で)配信がスタートしているのも2025年が「戦後80年」の年であることを実感させてくれたわけだが、この映画は、戦争が終わった事実を節目節目に思い返すように見るべき作品ではない。今も戦争は終わっていない、少なくとも主人公の“清太”は、あるいは戦争で非業の死を遂げた市井の人々は、そして彼らのその魂は、まだ今ここに生きているということを認識するための作品ではないかと思う。
映画は「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と話す清太の姿から始まる。映し出された清太はまだ生きている姿をしているが、視線の先には行き倒れて亡くなった自分がいて、遠目にそれを眺めているという構図だ。作品が公開されたのは1988年。物語は現代……つまり公開された頃も清太が神戸の三ノ宮界隈を見下ろすように“生きて”いることを連想させる。映画自体は清太による回想として展開されていくが、死してなおも……いや、現代もまだ彼の魂は生きていて、自ら戦争犠牲者の語り部として存在していることを苦く伝えている、そんな映画であるような気がしてならない。
本作は野坂昭如(2015年没)の同名小説を原作とするもので、当時神戸にいた彼自身の子供の頃の戦争体験をもとに書かれている。野坂昭如は非常に多芸多彩な人物で、直木賞受賞作家(まさに『火垂るの墓』で1967年に受賞)としてのキャリアのほかに、放送作家、歌手、作詞家、タレント、政治家など多くの顔を持っていた。しかし、戦争体験者としてのアイデンティティは生涯持ち続けており、その立場から日本の政治、社会に厳しく言及することを厭わず、タフに生きることの重要性を人生観の中にこめる、そんな人物だったと言える。私は小さい頃、野坂のファンだった両親に連れられて彼のリサイタル(コンサート)を観ているのだが、大人の男の粋で哀しいユーモアというのをあの時子供心に嫌というほど叩き込まれた。
参議院選に立候補するようになった頃の野坂や、『朝まで生テレビ』で大島渚とやりあっていた頃の野坂で彼を初めて知った世代はもとより、脳梗塞で倒れてほとんど人前に出ることがなくなった2000年代以降にその存在を知った人には、彼こそが『火垂るの墓』の原作者というのは俄には信じ難いだろうが、活動初期に、反戦小説とも受け取れるあのような作品を発表し、80年代後半にジブリ制作のアニメ化に協力したことは大きな功績だったと言える。なぜなら、制作~公開された87年~88年の日本はバブル景気真っ只中で、世の中が浮かれに浮かれていたからだ。
そんなところに公開された高畑勲監督による『火垂るの墓』は、浮かれに浮かれていた日本列島に大きな冷や水を浴びせることになった。もちろん、清太もその妹の“節子”も絵柄はジブリらしい愛らしさがあり、そもそもアニメーションなので原作と比べても表現のほどは異なる。だが、バブル景気全盛期に、43年前の神戸で食べるものもなく死んでしまった一人の少年とその妹の悲しい末路を描いたことが、どれくらい大きな意味を持ち、インパクトを放っていたかは想像に難くない。なにしろ、清太は今なお神戸の町で、亡くなってしまった自分の亡骸を幽霊になってずっと眺めている、と読み取れるシーンに始まる映画なのだから。
この映画の伏線にあたるのが、『火垂るの墓』とともに直木賞受賞対象となった野坂のもう一つの反戦的作品『アメリカひじき』という小説だ。これも野坂の自伝的作品とされるもので、こちらは終戦後の闇市での体験をもとにした内容になっている。実際には戦争を生き延び、10代で闇市での暮らしをしていた野坂自身が、まさに語り部のように伝えている小説で、それはあたかも「もしあのまま生き延びていたら」という、”もう一つの清太の物語”として読めるものだ。『アメリカひじき』は『火垂るの墓』同様1967年に発表され、1968年に『火垂るの墓』と併せた形で単行本化されているのだが、行き倒れて妹とともに死んでしまった少年と、闇市でしたたかに生き続ける青年の二人をそれぞれ別人格・別小説で描くことで、野坂は戦争体験者の語り部として生きることを宣言していたように思う。その後、日本は70年代に高度経済成長を遂げ、80年代には戦後の風景を一応払拭した。しかしそれはあくまで表層的なものであり、実際は戦争による犠牲者の声はずっと続いている、ということを、日本が豊かになっていく傍ら、野坂はどこかのタイミングで再度表明したかったのではないだろうか。そこに『火垂るの墓』のアニメ化の話があったのではないか、と個人的には推察する。
この映画は野坂昭如が戦争体験者としての語り部であったことを今なお我々に思い出させる。と同時に、戦後80年の今年、配信で観られるようになったこと、地上波のテレビで終戦の日に公開されたことに象徴されるように、過去の辛い経験が綴られた単なる反戦の私小説などではなく、戦争は今も終わっていないことを生々しく突きつけてくるある種のドキュメンタリーだ。常に誰もが観られる状態にしておくべき、歴史の生き証人のような作品なのである。(岡村詩野)