
応仁の乱の轍、歴史の足跡を辿る
”遺された史跡が語る、戦国の舞台”
応仁の乱とは
室町時代中期に起こった日本史上最大規模の内乱です。この内乱は、室町幕府の将軍家や管領家の後継者争い、細川家と山名家の守護大名同士の対立、畠山家の家臣団の分裂など、さまざまな要因が絡み合って発生しました。応仁の乱は、1467年から1477年まで約11年間続き、京都を中心に全国に戦火が拡がりました。この戦乱によって、京都は荒廃し、幕府の権威は失墜し、守護大名は領国に帰って戦国大名となりました。応仁の乱は、戦国時代の幕開けとも言われる重要な事件です。

「応仁の乱勃発の地」碑

「応仁の乱勃発の地」碑とは、京都市上京区にある上御霊神社の門前に建てられた石碑です。この石碑は、応仁の乱の発端となった御霊合戦がこの地で起こったことを示しています。御霊合戦とは、応仁元年(1467年)1月18日に、畠山氏の家督争いに絡んで、畠山政長と畠山義就の軍勢が上御霊神社の森で衝突した戦いです。この戦いは、細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の対立に発展し、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に拡大しました。この石碑は、京都市が昭和45年(1970年)に建てたもので、応仁の乱の歴史的な意義を伝える史跡の一つです。
山名宗全邸跡

山名宗全邸跡とは、室町時代に起こった応仁の乱の西軍の総大将であった山名宗全の京都の屋敷があった場所です。
山名宗全は、畠山義就を支持して細川勝元と対立し、足利義尚を擁立して将軍職をめぐる争いにも加わりました。自身の邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く細川勝元と東西に分かれて戦いました。山名宗全邸跡は、現在は石碑が建てられており、周辺には応仁の乱に関連する史跡が多数存在しています。
応仁永正戦跡舟岡山

応仁永正戦跡舟岡山とは、京都市北区にある山で、中世には戦略的な要所として重要な役割を果たした場所です。
応仁の乱(1467~1477年)では、西軍の大内政弘や山名教之らが船岡山に城砦を築き、東軍の細川勝元と激しい攻防戦を繰り広げました。
永正の乱(1508~1521年)では、細川澄元が船岡山に城を築き、丹波から入京しようとした足利義尹や細川高国、大内義興らの軍勢に対抗しました。しかし、船岡山の戦い(1511年)で、船岡山城は落とされ、澄元は摂津に敗走しました。
船岡山は、国の史跡に指定されており、現在は船岡山公園として整備されています。船岡山の歴史を感じながら、自然や景色を楽しむことができます。
大報恩寺 (千本釈迦堂)

大報恩寺は、鎌倉時代に僧の義空によって創建された真言宗の寺院です。本堂は1227年に建立された国宝で、京都市内最古の木造建築です。 本堂は釈迦如来坐像をまつることから「千本釈迦堂」とも呼ばれています。大報恩寺は、応仁の乱の主戦場であった西陣の近くにありましたが、奇跡的に本堂だけは焼けずに残りました。本堂の内陣の柱には、応仁の乱の刀や槍の傷跡が今も見られます。
足利将軍室町第跡

足利将軍室町第跡とは、京都市上京区にある史跡で、室町幕府の3代将軍足利義満が1378年に造営した邸宅の跡地です。室町第は、東西約110メートル、南北約220メートルの広大な敷地に多くの殿舎や庭園を備え、室町時代の政治や文化の中心地でした。室町第は、室町幕府の名前の由来にもなりました。また、一時期は崇光上皇や後花園上皇、後土御門天皇の御所としても使われたため、「花の御所」とも呼ばれました。室町第は、応仁の乱の際に東軍の陣地となり、戦火によって焼失しました。現在は、石碑や石敷きなどの遺構が残っています。
百々橋の礎石

百々橋の礎石とは、京都市上京区にある史跡で、室町時代に起こった応仁の乱の戦場として有名な百々橋の橋脚を支えていた石の一つです。百々橋は、堀川の東を南北に流れていた小川にかかっていた橋で、長さ約7.4メートル、幅約4メートルの板橋でした。橋の名前は、この付近が「百々ノ辻」と呼ばれていたことに由来します。百々橋は、応仁の乱の主戦場の一つでした。百々橋の西には西軍の総大将である山名宗全の邸があり、東には東軍の総大将である細川勝元の邸がありました。両軍は、百々橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史の一幕が刻まれました。百々橋は、近世になって石橋に架け替えられましたが、1963年に小川が埋め立てられた際に橋も解体されました。 橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されましたが、橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのぶ貴重な遺構として当地に遺されした。
応仁の乱 西陣跡

西陣跡とは、京都市上京区にある史跡で、応仁の乱の際に西軍の総大将であった山名宗全の邸宅に本陣が置かれた場所です。この「西」軍の本「陣」から、山名邸跡地の付近を「西陣」と呼ぶようになりました。
西陣は、平安時代から織物が盛んな地域でした。応仁の乱後、戦乱から逃れていた職人たちがこの地に戻ると、町衆の尽力もあって「西陣織」として大きく発展しました。祇園祭の山鉾が現在のように絢爛豪華になったのもこの時代のことで、西陣織が山鉾の美しさに色を添えたといわれています。
西陣跡には、山名宗全邸宅跡の石碑や、両軍の陣地を隔てた百々橋の礎石などが残っています。また、西陣織会館や織成館などで、西陣織の歴史や技法に触れることができます。
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